屠所の羊

備忘録

与える人間になりたい

最近悲しいことがあって、センチメンタルになっています。なんなら今は旅行先のホテルの部屋で室内灯を消してユーミン聴きながら夜景をながめつつ日記を書いています。冷蔵庫にあるお酒でも飲もうかしらと思ったけれども、ミネラルウォーターの方が魅力的だったのでやめておいた。

視力が悪いので涙で滲んだような夜景が見える。

まあセンチメンタルになってる理由なんてはっきりしているので、原因排除すればいいだけの話なんですよね。感情的になっても理性はなくなってくれないので難しいところ。例えば解決策がある時に、その解決策をとらずにおセンチになっていることをお馬鹿さんだと言えるだろうかって話で、馬鹿にする奴がいたらオメーが馬鹿だよっておもう。そこで解決策をとることで私は失うものがある。だから悲しんだ。

ぐずぐずしてるときは言葉に出すのが一番スッキリするので言葉にだすんだけれども、他人と話していると、結局のところ、友人は優しいことをいってくれたり、私の言葉から物事を推測しているので、正直私の願望が反映されている。その自覚がある。勇気をもらったり迷いを払拭するときはとても助かるが、感情を整理するという点においては自分で日記でもつけた方がよい。

悲しいことがあって、悲しい理由もわかって、それが他人の行為に起因するものである時に、わたしができることは、悲しかったよと伝えることだけなのである。それ以上になにかできるだろうか。悲しくなったからといって他人にこうしろと命令することはできないし、悲しくならないように努力しようにも、どうしたって悲しいものは悲しいのだ。だから、悲しいことをする他人とは、結局距離を取るしかないのだ。それで解決するのだ。他人は距離を置こうと思えば自由に距離を置けるところがよい。血縁だとなかか難しい。

私はこんなに悲しんでいるのだからあなたあなたはこうしてよ!そう言える関係も素敵だとは思う。わがまま言うくらいが可愛いのかな。

でも、「悲しいんだよ」と伝えて「いやそんなことで悲しまれても」と私の感情を軽んじてくる人間は、私の存在を軽んじている。その程度なのだ。

そんな人間と一緒にいると己の価値が下がる。

でも私は与える人間になりたい。こんなことで悲しんでないで、あなたは価値のある人間だよと、与える人間になりたい。愛されてること、尊重されていること、慈しまれていること、気付かないくらいに隙間なくひたひたに浸して、あったかいまま死ぬまで一生過ごさせてやりたい。

それだけの器がないくせに、そんなことを望んでしまうから、こんなにもセンチメンタルになるのでしょう。けれど。奪われても、奪われても、与えることが出来る人間はきっといる。それに私がなれるのかは分からないけれど、私はそうありたい。

 

取り留めのない日記になってしまったが、すごくスッキリした。

目標はいつも明確にしておかなくちゃ。