屠所の羊

備忘録

興味関心を持って学習できる

興味ってなんだろう。小学生の頃通信簿の「興味関心を持って学習できる」が「よくできる」にならない子だった。基本的に成績は良いし体育もできる方だったので「よくできる」が多かったのだが、「興味関心を持って学習」してるように見せるのは下手くそだった。いや、そういう話ではない。私が不満だったのは「興味関心を持って学習」しているのに、よくできているという評価が得られなかったことだ。私は最大限に楽しんだ事柄も、教師には興味関心を持っているようには見えなかったのである。そもそも何故「興味関心を持って学習できる」などといった評価項目があるのか分からない。興味関心を持っていようとなかろうと、それは学業にはなんの影響もないのではないか。全ての事柄に興味関心を持てる人間なんているのか。なんたる無意味な評価。おまけに評価者は絶対的な評価尺度を持たずどこまでも主観でしかない評価でその基準も明らかにされないまま児童に開示される。もっとハッキリとした基準のある評価項目が良いと思った。しかし、大人になった今なら、「興味関心を持って学習しているように見せる」ことが出来ればいいのだと分かる。むしろそういう「振る舞い」を評価するための項目だったのかもしれない。などと考えてしまう。それにしても評価基準は不透明なのだが。

何事にも興味関心を持って楽しんでやりましょう、みたいな教えは人を幸せにするのだろうか。楽しいことだけ楽しんでいればいいのではないか。生きるためにすることと、自分の生活を豊かにするためにすること。楽しめるのはどちらだろうか。楽しむためにすこし頑張ってみる、というのは価値がないことなのだろうか。「どうせやるなら楽しみなさいよ」と言われたことがあるが、理想はそうだが楽しまない私をあなたが責めることはできない、そう思った。まるで楽しまなければその行為の価値が下がるような言い草に違和感を覚えた。何もかも楽しんでしまう素敵な人間になりたいとは思うが、他人にそれを強要される筋合いはない。強要する人にもなりたくない。どうせなら一緒に楽しもうとする人になりたい。まぁわたしは興味関心の表出が下手だと小学生の頃から評価されているので、私が楽しんでいても相手が一緒にいて楽しいかは甚だ疑問であるが。