屠所の羊

備忘録

ドラゴンクエストユアストーリーを観て

※ネタばれ含みます

※独断と偏見です

 

観てからしばらくたち落ち着いたので感想を書きます。

あれを良い映画と言える人はほんとうに器が大きいと思う。私には無理だった。

まず、私は、勇者になりたいわけでも主人公になりたいわけでもなかった。ただ、主人公の旅を、人生を、ゲームという媒介ではなく映画という新たな媒介で表現してもらえるものと思っていた。「ユアストーリー」という副題で気が付くだろうと言われればそれまでだが、心のどこかで気づきながらも私は期待してしまっていた。新たな表現で映画でしかしえないゲームではできない表現であの世界を描いてくれることを期待していた。「ユアストーリー」勇者ではないあなたのストーリーといった意味合いで描くのかな、など軽々しく考えていた。

私は、5の一番のポイントは主人公が勇者でないところだと思っています。

まさか、あんな、軽々しく描かれて、最終的には「僕は勇者だ」というオチなんて信じられません。意味合いが違うのはわかっています。「勇者(狭義)」と「勇者(広義)」ですよね。しかしあくまでも主人公は主人公であって勇者ではないのです。私たちは勇者にはなれないのです。そこに物語の主眼を置いている人には受け入れがたい物語だったと思います。

 

ゲームの中で、主人公はあらゆる立場・役職を与えられます。パパス・マーサの「息子」、ビアンカの「友人」、ヘンリーの「子分・友人」、魔物の「奴隷」、勇者を探す「旅人」、キラーパンサーの「飼い主」、魔物たちの「魔物使い」、ビアンカ/フローラの「夫」、グランバニアの「国王」、子供たちの「父親」・・・しかし、勇者にだけはなれないのです。勇者にはなれない主人公の物語だからよいのではないですか。世の中にはたぐいまれなる才能を持った方がいるとは思いますが、そうではない私たちと同様に勇者といった選ばれし者ではない男の物語だからよいのではないですか(魔物使いであり勇者の父親、国王という時点で凡人ではないと突っ込みはなしで)。

極めつけは勇者が自分の息子という悪夢ですよね。

まず、勇者を探して旅している時は、目標が見つけることなんですよ。なんなら自分が勇者ではなくてホッとしたくらいだと思います。あとは勇者に天空の盾や剣を渡して世界を救ってもらえばいい。どこかに存在するという「勇者」という世界を救ってくれる存在にすべてを託せばいいんです。それがなんです、自分の息子が「勇者」なんてものを背負う人生にあるなんて悪夢じゃないですか。自分が勇者ではなくてホッとした時の事など思い出して絶望しますよ。この幼いわが子が世界を背負って魔物と命を懸けて戦わなければ、母のみならず妻も、ひいては愛する子供も自分の大切なものすべてが壊されてしまう事実に震えますよ。「勇者」を見つけ出してすべて託そうとしていた自分の無責任さに自己嫌悪で呻きますよ。父を目の前で殺され、長い間奴隷生活を強いられ、生まれたてのわが子と引き離され石にされとつらい人生を送ってきた主人公だが、息子が勇者というのはなんという追い打ちかと。

映画で天空の剣を抜いた息子を笑顔で抱きしめるシーン、本当に?って思ってしまいましたね。息子が勇者で笑える人間はどれだけいるのでしょうか。

 

別にすごくつまらないわけでなかった。「解釈違いってやつね!」って鑑賞中は笑い飛ばしていた。天空の剣を要らないといったり、フローラとの結婚を断った直後にビアンカにプロポーズしたり、ゴールドオーブをすり替える際に過去の自分に嫁選びのアドバイスをしたり、そういう主人公かあ、なるほどね、と飲み込んでいた。

でも、最後のウイルスが出てきて、VRの世界だと言われて、そういうことを言えちゃうそういう世界にしちゃう人が作った話だと思うとすべてに合点がいった。解釈違いなどではない。解釈などしてない。ゲームが我々に自由に読み取らせようとした行間に、見出しだけを見て自由にセリフをねじ込んできたんだ。だからこんなにも薄っぺらい。

もちろんゲームの世界を2時間では到底表現できないとは思う。しかし、こんな映画が作りたかったのだろうか。プロとして、2時間の作品として完成させるにはこれしかなかったのだろうか。できないことはできないというのがプロってもんだろ。

 

感情が高ぶってしまいました。

 

言葉なんていらないから、あの世界に浸らせてほしかった。たかだかゲームではなく自分にとっては大切な人生の一ページだと、そんなことは言われなくたってわかってる。私たちはあのとき冒険をしてたくさんの感動と悲しみと喜びを体感した。言葉なんていらなかった。あの体感が本物か偽物かなんて、他人が決めるものじゃない。烏滸がましいにもほどがある。