屠所の羊

備忘録

言葉には神が宿る

 言葉には神が宿る。言霊という言葉があるように、言葉には魂が宿る。かつて言霊はそのまま神とされた。現代の人にはそれほどその意識はないと思うが、やはり多少なりとも根付いているものがある。他人に「死んでしまえ」といった人間が、その後その他人が死んだことで自分を責めてしまうという感情に私たちは何の疑問も抱かず納得できる。私たちが見ることで初めて花や空が色付くように、私たちが認識することでそこに初めて世界が広がるように、言葉にすることで初めて存在するコトは多い。「あれ、ここ何の建物が建ってたっけ?」と更地を眺めるとき、今まで存在したはずの建造物は取り壊されて初めて存在をあきらかにされる。存在を与えるといった点でも、それは神の所業に近い。私たちは、あらゆるコトに魂を吹き込む力を持っている。

 泣きわめくだけの赤子だった私たちは、言葉という力を得た。好きなものに魂を宿してあげたらいい。なんて素敵な力だろう。その素敵な力で、私たちは自分自身にも魂を宿していく。成長していく過程で生まれる様々な感情、胸が詰まり息ができないような、あるいは心が跳ねるような、あるいは重く目の前が沈むような、身体中がムズムズして落ち着かないような、様々な感情に言葉を当てる。これはとても難しい作業で、きっと初めは「嬉しい」「怒った」「悲しい」「楽しい」といった大きな括りから、徐々にこれは「嬉しいけど悲しいもあるな」「楽しいけど私は怒っている」など、難しい感情と折り合いをつけていく。自分のなかに湧きこぼれる感情を一つ一つ言葉という器に移していく作業が追いつかなくなる時期が思春期なのではないか。自分自身を翻弄する感情に名前をつけることができて初めて私たちはその存在を認識でき、納まりのいい場所へ納めることができる。ありがたいものとして大切にすることもできるし、いらないものとして捨てることもできる。人へ渡すことだってできる。それはどんな形にもなる。どんな言葉を与えるかであなたの感情は姿を変えるし、時には不意に誰かを傷付ける刃になり時には温かく誰かを包む衣となる。形を持たない水のような存在のままでは手に余るだけだ。それでも、例えば少し靴擦れをおこしてしまう靴を履き続けると疲れてしまうように、しっくりこない言葉を無理やりあてがって自分をすり減らす必要はない。その感情はきっといつか素晴らしい表現と出会うことで昇華される。

 自分に魂を宿してあげるのは自分だ。あなたが万物に意味を与え、色を与え、音を与え、魂を宿すように。

 さながら永久機関のように、私たちは自分の言葉に神を宿し、その神は私たちに魂を宿す。