屠所の羊

備忘録

棲む日々

日記付け始めて全く書かないうちに何と6月になっておりました。6月の実感わかないなあ。

最近締め切りのものがたくさんあってせわしないのですが、締め切りがあるとそれに向けて尻を叩かれるので怠惰な自分としては有り難いものがあります。全くどこまでも主体性がない。小学生の時、私は塾に通って中学受験の勉強をしていたのですが、ある時同級生が言ったんです。

「先生は模試でいい点を取れというけど、本番は入試だよね。本番でいい点とることを目標にすべきで模試でいい点を取っても仕方ないじゃないか」

当時の私はこやつは何を言ってるんだろうとおもいました。模試でいい点取れれば本番でも取れるじゃん、と。先生の返事も似たようなものでした。「目の前のハードルを越えていけばいつの間にかもっと高いハードルを越えられるようになってる」的なことを言ってた気がしますがなにぶんかなり前の話なので怪しいです。しかし、今思えば、同級生の意見はまっとうですよね。主体性があって素晴らしいと思える。中学受験というゴールを設定したうえで、塾がこなすべき課題と乗り越えるべきハードルを設定してくれていたからこそ、私は目の前の事だけやっていればいつのまにかステップアップできていたのだ。それに対してお金を払っていたのだから当たり前と言ってしまえばそうなのだが、今になってなるほど高い月謝をとるだけあるなと感心している。

今、私は目標があるか。目の前のハードルは不思議とあらゆるところにある。あらゆるところにあるハードルを気まぐれに飛び越えながら、あれ、このままでは何のステップアップにもならないのではとどこかで気が付いている。小学生のころから成長のない自分に辟易する。

このままでも幸せになれるだろうな、と思えるハードルがかなり低い。おそらく主体性もなくこのまま特に楽しいとも思えない仕事を続けていても私はそこそ幸せになれると思う。私は離婚歴があるが、離婚する際もこのままでもそこそこ幸せになれるだろうなと思いながら離婚した。そう思うとこのまま一生適当に目の前のハードルだけを気まぐれに飛び越え続けるのかもしれない。偶然目の前に現れたから、越えてみた。そうしてどこに行きつこうとそれはそれで目標を持ってどこかに行きつくよりは時間がかかるかもしれないけれど、だれかと競うものでもないからいいのかもしれない。

人生の目標なんで、楽しく幸せに生きること以外にないので、幸福を感じる閾値下げていくしかないなと思いつつ、特に何もせず日々働きたくないなと思いつつ出勤している。

目標が漠然としすぎている。

人生が膨大すぎる。

それでも一日は短い。