屠所の羊

備忘録

楽園

映画『楽園』を観た。

正直あの閉鎖的な話の通じない年寄りだらけの限界集落の様子が見るに耐えず辛かった。まず観てる最中は「なにこれ楽しめない」と思っていた。あまりにタイトルと乖離した内容だったので、観終わってからは「楽園というタイトルはどういう意味なんだ」と疑問に思った。原作は『青田Y字路』しか読んでいないが、その上で考えた考察を述べていこうと思う。

結論から言えば、「今いる場所が楽園とは限らない」というメッセージ性をもった映画ではないかと私は考える。紡はあの集落から逃げて東京へ出る。決してそこで楽しんでいた訳では無いが、友人の青年もやってくる。そして2人で飲んだ帰り、喧騒にかき消され観客は初め聞き取れないが青年は紡に「楽園を作れよ」と言う。最後にこのセリフが明かされたことで、これがテーマなのかなと思えた。

タケシは海外からやってきて、「日本は楽園だって聞いていた」という。そして楽園はどこにもないのだと絶望している。探しているが、どこにもないのだ。しかしタケシは楽園を作ろうという努力はしていない。桃源郷を探すような、ぼんやりとした絶望の中車を走らせている。タケシにとってあの集落は楽園ではなかった。

また、善次郎の場合は、あの集落を楽園にしようと活動する。死にゆくのを待つだけの集落を活気付けようと働く。それでも、些細なことから村八分となり、精神的に追い詰められた善次郎は気が狂ったように罪を犯す。楽園にしようとした場所は牢獄のようで、地獄であった。

そして、善次郎メインの話が終わった後に、また紡が東京で青年に「楽園をつくれよ」と言われたシーンが入る。喧騒にかき消されたこのセリフが入った時、紡は別のことに気を取られていた。それは後ろから聞こえてきた「愛華ちゃん」という呼び声。そして紡が振り返ると「愛華ちゃん」と呼ばれた少女は紡を見て微笑み、去っていく。愛華ちゃんは生きていたの?と思ってしまうような描写である。しかし、あのY字路で愛華ちゃんを内股で追いかけるタケシの姿を見ると、愛華ちゃんはもうこの世に存在しないと思ってしまうし、タケシが殺したのだと私は感じた。それでいて、東京で「愛華ちゃん」と呼ばれる少女に微笑ませる意味はなんだ。もしかしたら生きているかもしれないという示唆か。あんな限界集落でいがみ合い疑心暗鬼になっていることを嘲笑っているのか。生きづらいところで生きる必要はあるのかという疑問が湧く。

楽園は探しても見つからないし、作りたい場所に作れる訳でもない。今の場所が生きづらいなら逃げて。そして幸せになろうとして。そういうメッセージを受け取った。

タケシが本当に愛華ちゃんを殺したのかどうかは、映画を見ても原作を読んでも分からなかった。映画では最後に花冠を落とさず愛華ちゃんを追いかけて終わるが、原作だと花冠を落として足を踏み出しかけたところで足元の花冠を見て終わる。どちらかと言うと映画の方が追いかけているので犯人かなぁと思ってしまうが、花冠が何を表しているのかが分からない。

 

誰かを犯人にして折り合いをつけたかった。

分からないものを分からないまま受け入れるような強いひとはなかなかいない。自分の知らないもの、理解できないものを抱えておくだけの体力がない。誰かを犠牲にしてでも、結論を出したい。白黒ハッキリさせたい。

弱者の発想ですね。でも世の中には弱い者たちばかりだから、それは力の暴力となる。あの村人たちがタケシの家に押しかけるシーンは、限界集落ではなくとも、現代のネット上でも散見されると感じた。自分の知り得る情報だけで分かりやすく悪を仕立て上げなんの証拠も詰る権利もないもの達が自前の正義とやらを振りかざす。もしその後、悪が他にあったとしても「まぁ、あいつも悪そうだったじゃん」と自分のしたことはまるで悪では無いかのような振る舞いをする。きっと限界集落であっても、小学校の1つの教室であっても、大学のサークルであっても、1つの国であっても、インターネット上であっても、我々は悪を仕立てあげてストレスを発散するのであろう。きっと、苦しい場所にいて、ストレスがたまるのであろう。みんな楽園にいれば、悪を叩くストレス発散など必要ないのかもしれない。

 

生きづらい場所に生きる人は、まず逃げて、そして、少しでも楽園が作れそうな場所で、まずは一休みしてほしい。

そして、分からないものや、理解できないものも抱えて生きていけるくらいの余裕を持って、みんなと楽園を作って欲しい。