屠所の羊

備忘録

歩行

プッツリと期待や執着が切れる瞬間は、なんとも言えない感情になる。すっきりしたと言えばすっきりしたのだが、それがイコール清々しく爽快かと言えばそんなことはない。すっきりと、自分の中の何かが抜け落ちたかのような、そういった身軽さ、空虚さ。それは諦観であるのだが、一方で救いでもある。幼児的万能感を捨てざるを得なくなった時から我々は、諦めることでしか救われないのではないか。我々が思い通りにできるものは、この世にひとつもない。もし、思った通りに手足を動かすことができ、描きたいものを描き、造りたいものを造り、奏でたいものを奏でることができたなら、それはとても尊いことだ。

執着を捨て、身軽になった私で、どこまで行こうか。思い通りになることを何一つないけれど、ぎこちない私の動きで、生み出せることもきっとあるはずだ。幸いにもまだやるべきことは沢山ある。なにかを生み出せないと落ち込んでしまう時は、お風呂に入って暖かいお布団で寝よう。生み出せなくて当然だ。私だってまだ生まれたてなのだから。そもそも何も持たずに産まれたのだから、何を生み出す必要もないのだ。私自身が尊いものなんだから。人の役に立つ必要もないし、誰かを助ける必要もない。なんで生まれてきたのかとか、どのように生きるのかとか、なんのために死ぬのかとか、どうでもいいことだ。私はただ、生きている。どこに行こうか。幸いにも、足を踏み出したいと思えば、私の両足は思い通りに前に出てくれる。