屠所の羊

備忘録

おはよう

愛情を感じる瞬間っていつだろう。なかなかこれは難しい。これをしてもらったら愛されている、なんてものは存在しないような気がする。毎朝のおはようやおやすみ、日常の言葉や仕草ひとつに表れると思う。もしそれが無くて、日常の中に愛情の欠片もないならば、それは存在しないんじゃないか。おおきな、自分の手にあまるような愛情を感じる時、それらは日常の中に隠れている砂金のような輝きが一塊になって姿を現すだけではないか。無からは何も生まれない。「そこに無ければ無いですね」は素晴らしい一文だ。失ってから気付く、などという表現はあるが、それは大きな金塊を探して見つからないと嘆いているのであって、砂金を探して探して探し続けている人は、ただの砂丘をさまよっているに過ぎない。いくら探しても、輝きは見つからない。小石は磨いてもただの小石だ。見たいものしか見えないのは人間の美徳と思える。なんなら見たいものを見ることが出来る。存在しない黄金郷で生きることだってできる。むしろそんな幻覚を現実だと信じ込めたなら、その人の人生は薔薇色であろう。薔薇色の人生。何が幸せだか分からないな。自己暗示こそ幸福への近道だと思える。やはり人類の歴史からは宗教は無くならないな。

目を見て話すことや笑うこと、優しい声音で名前を呼ぶこと、布団をかけてあげること、一緒に食事をとること、そういったことに愛情を感じる。それが無ければ、黄金郷は夢幻なのだ。黄金郷の幻影を見ることも叶わずに、私は砂丘で必死に砂金をかき集めている。一体この手元にあるものはどれだけが価値のある金なのだろうか。最近はそんなことばかり考えている。