屠所の羊

備忘録

待つということ

待つということってなかなか難しい。待ってる間、有効に他のことに時間を使えばいいのに、いつだいつだと待ち構えて全然集中出来ない。アホだと思う。時間が決まっていたらまだ良い。1時間くらい前からソワソワするだけで済む。けれどもオンコールとなると四六時中ソワソワしてなければならない。あとどれくらいだよ、とか伝えてくれる人は素晴らしいと思う。きっと待つということをしたことがあって、待つということの難しさをわかってる人だと思う。なんかしてりゃいいじゃん、とか軽く言うやつはダメだ。分かってない。待つということはその事をずっと考えていなくてはならない行為なのだ。すぐに連絡できるこの時代に、アホみたいに待つことは少ないと思う。だからこそなのか、待つということに慣れない人が多い。当たり前だが待たせる方はなんとも思ってない。待つ方は待つ苦しさも分かっているから相手を待たせる時は相応の気遣いをする。多分その気遣いにも気が付かない人はずっと気が付かない。当たり前のように享受する。気遣いに気がついて「ありがとう」と感謝し合う関係も素敵だと思うし、気遣いなどなく自由奔放に待たせたり気ままに待ったりする関係も素敵だと思う。ただ、どちらかだけが待つということを真剣にやってしまう関係は、結構しんどい。上手くいかないんじゃないかと思う。人付き合いってバランスだと思うから、シーソーみたいに上手く遊べればいい。1人だけ待って待って待ち続けるのは心をすり減らして時間もすり減らしてなんにもならない。待ってたよ、って言われて嬉しいのはきっと誰しもに共通するものじゃないんだな。私は嬉しい。そういう人間。自分に価値がないと思ってる人は遅刻しがち、みたいな意見を見た事があるが、本当なのだろうか。私も結構そう思っているところがあるが、価値がないからこそ私なんぞの遅刻で皆様の時間が奪われるのは申し訳ないと思ってしまう。逆に私がいなくても問題なく開始するであろうものは結構遅刻する。むむ、遅刻しているではないか。やはりその説は正しいのかもしれない。また、私はあまり人を待つということをしない。待たれてても申し訳なくなるかな、とか思って先に行くことがある。これも自分なら自分なんかを待たずに先に行ってて欲しいからなのだが、私ももう子供ではないので自分だったらこうだから相手もこうだろうが正しいとは思っていない。だがついやってしまう。いつになったら大人になれるのやら。待つということを気負わず有意義にかつ真摯に出来るようになれば、結構素敵なひとになれる気がする。