屠所の羊

備忘録

私の感情は私だけのもの

最近、悲しくて、悲しくて、何も手に付かない。悲しみを紛らわそうとして、音楽を聞いたり漫画を読んだりしている。こんな不毛な時間を過ごしている場合ではない。せめてこの感情を綴っておかねば、このくだらない感傷はきっと忘却曲線に則って美しく消え失せてしまう。時間は偉大な傷薬だと、流石にこの歳になればわかっている。有無を言わせない恐ろしさもある。忘れたくなくても、忘れてしまう。幼い頃、とってもとっても嫌で悲しかった出来事を思い出して、それほどでもないなと感じる。でも、そんなの大したことないよ、って未来の自分に伝えられたら、とっても悲しいね。時間はそんな野暮なことさせない。

 

「私の感情は私だけのもの」

違国日記という私の大好きな漫画で何度も出てくる。私が日記をつけ始めたきっかけでもある。そんなの当たり前じゃないか、と思うかもしれないが、この当たり前なことをしっかりと理解している人は少ないように思う。共感は人付き合いを簡単にすると思うが、逆に共感し得ないものを排除してしまう恐れがある。「共感=理解」と直結させてしまうと、「共感できない=理解できない」に直結する。理解できないものは恐怖を感じてしまう。弱き者は恐怖に支配される。そして人間はすぐに弱る。いつでも強くあることは難しい。「共感=理解」なんて怠惰である。共感は楽だ。相手の魂が震えることで、自分の魂が同じ周波数で共鳴するだけだから。脳を介さなくてもできる。感情も扁桃体などの脳の活動だろうと言えばそうだが、せっっかくこんなに重くシワがたくさんある脳を持っているのだから、共鳴してるだけじゃなくて、相手が何Hzで怒っているのか、悲しんでいるのか、喜んでいるのか、考えてみてもいいのではないか。それが「理解」だろう。あなたと私は共鳴できないことは残念なことではない。「共感=理解」ではない。「理解=共感」でもない。「私の感情は私だけのもの」理解する必要も共感する必要もない。同時に、恐れる必要もないし、否定する必要もない。それはあなたのものではないのだから。

いつでも共鳴してくれる存在は、孤独を紛らわせてくれるかもしれない。そんな存在を失うのは悲しい。独りを実感する。嬉しくても、悲しくても、怒っても、泣いても、叫んでも、空気が震えるだけ。

理解なんてしてくれたことなかったけど、時々共感はしてくれた。単なる共感。脳を使わない共感。理解しようとなんてしてくれたことがなかった。興味が無いから、考えようともしない。共感だけでやっていけるのは、知人もしくは付き合いの浅い友人までだろう。理解しようという努力のない関係を、延々と続けていくのは苦しい。周波数が合ってる時期はいいけれど、僅かなズレで響かなくなった時、理解しようと努力しない人は、否定か無視といった態度をとることが多いように思う。否定は論外だが、無視もかなり堪えるものがある。1人ではなくても、孤独になる。

「私の感情は私だけのもの」

その前提で、共感などには頼らず、「分からない」を前提に、理解しようという努力をできる関係ではないと、完全に一致するわけが無い赤の他人と良好な関係を築いていくのは難しいのではないか。そして、理解できないものもあるだろうが、それは「理解できないもの」として、理解しないまま隣にいればいい。私たちは同じ感情を持ち得ることはないし、同じ経験を積むことはない。それでも、隣にいることはできる。違う周波数でしか奏でられない生活を、営むことができる。たまに共鳴もしたりして。

 

ちょっと周波数が合ってただけだったんだね。居心地がよかったね。頭使わないから糖も消費しないし燃費よかったね。

あなたの感情はあなたのものだから、私には何一つ分かりませんでした。理解しようと努力してみたんだけど、きっと理解されたくなかったのでしょうね。そこそこ容易に共感できるくらいには価値観が似ていたので、理解されたくないであろう感情も、勝手に推測してしまいました。全部推測でしかないけれど、それは推測であると同時に、わたしの実感なのだ。私は愛されてなどいなかった。理解しようと努力したら、実感してしまった。本当のあなたの感情は何一つわからないけれど、この実感だけはわたしのものだから、本物なのだ。切なくなるので言葉にしたくはなかったけれど、本当に私は忘却の面で優秀なので、忘れないようにここに記しておく。