屠所の羊

備忘録

誕生日。

誕生日。

幼い頃は誕生日を祝ってもらうことになんの疑問も抱かず、みんなが私に優しくしてくれ、プレゼントをくれ、ケーキを食べられる素晴らしい日だと思っていた。キラキラした毎日の、特にキラキラした日。今思うと愛されて幸せに育ってきたのだなあと実感する。この歳になっても朝一番に両親は「おめでとう」のメッセージをくれる。

だが、逆に自分はというと、あまりに愛されて育ったからか、一抹の寂しさを感じてしまう日となってしまった。あの頃みたいにキラキラはしていない、何かの楽しみを支えに生きる日々(言ってるほど辛くはない)。その毎日の中で、かつては特別だった日は、平凡な毎日の一部に落ち込んでしまった。あの日を特別なものにしていたのは、私ではなく家族の愛だったのだと実感してしまった。今もその愛を遠くから送ってくれるが、いつまでもあるものではないのだ。かつてもらった愛を糧に、私はぶくぶくと太り、次は誰かをたくさんの愛でぶくぶくにさせなければならない。特別を作る番だ。

昔は家族の誕生日など、ただの楽しいイベントでしかなかった。しっかりと祝ったことはなかったが、今はみんなの誕生日に、生まれてきてくれてありがとうという気持ちが湧いてくる。たいそうな奇跡だ。

あなたが生まれ、無事に生き、成長し、様々な選択の末に私と袖振り合ったということは、たいそうな奇跡だ。有難いことだ。

心からお祝いしたい。

ぼやき

むしゃくしゃしたので綴ります。

怒りの所在をはっきりすることは大人への第一歩だと私は思う。いや、大人というか、社会人として生きていく上で身につけるべきスキルだと思う。

なんだかむしゃくしゃして何かに怒っており、周りに当たり散らしている状況というのは赤ん坊と変わらない。

自分がなぜ気持ちよく無くなったのか、何にカチンときたのか、それを理解できない年齢ではないだろうと思う。

もっともらしいことを言って、そちらに論点をずらすのは皆よくやることだとは思う。ただ、そのもっともらしい論と、あなたの怒りとの関係性はどうなっているのでしょうか。そこに怒っているのでしょうか。中にはそのズレに気がついていない様に思える人もいて(私から見てズレているだけで、本当にズレているのかはわからない)、もっともらしい論を展開しながら別の点で怒っているからこれは手に負えない。キモチのモンダイガーはこういうタイプにも存在すると思う。

気持ちの問題、というのは確かに存在する。

言い方一つで受けての印象は変わるし、物事の順序を間違えただけで印象はグッと悪くなる。言いたいことは一緒だし、順序が違っても結果は同じなのに。

ただ、そう言った「印象操作」は人が生きていく上で自分の人生を生きやすくするための手段であり、それによって自分の感情を振り回されるなど愚の骨頂である。

ただ、まあ何に対した怒りなのかもわからずにでも、怒りを発散させることは己の精神環境に良いかとは思う。ただその怒りを発散することで、また、負の感情を抱く人はいるのである。その人が冷静に「これは自分への怒りではなく何かを発散しているだけだ」と受け流すか、自分への怒りと受け取り精神をすり減らすかは相手次第だが、怒りを発散させている時点でどちらになっても文句は言えない。「受け取り手の問題だ」というのは努力不足の伝達側の言い訳である。

そうやって自分が怒りの所在をはっきりさせることができないために、他者の精神環境を脅かすのは最低の行為である。

ただ、私が思うのは、怒りの所在というのは他者からは分かりようがないものであり、それを解することができるのは自分だけであるということだ。その日少しお腹が痛かったとか、付き合っている人とうまくいってないだとか、そう言った個人のコンディションで沸点は下がる。下がった沸点で爆発させた怒りは、冷静に考えると理解に苦しむものである。他者が理解することなど不可能なのだ。

だから、怒りをぶつけられた時に、まず、その怒りは私に向くべきものなのかを考える。違うなと思った場合は、そこで終了だ。なぜ怒っているのかの解明は不可能。さらっと忘れるのが一番。その怒りが私に向くべきものであっても、そんなに怒ることなのか考えてみて、おかしいなと思ったら、謙虚に怒られた事実のみを受け止めるべきである。ただ、「そんなに怒るほどのことじゃないじゃん」と言うのは、驕りである。あなたにとって怒るほどのことでなかっただけなので、他者の怒りの度合いを勝手に測るべきではない。と、私は思う。たとえその怒りの根底に別の問題があったとしても、それは本人以外知る由もないことである。

必要以上に重く受け止める必要もないし、相手の言葉を軽んずる必要もない。

私はそう思いました。

以上、なぜ怒りを向けられているかわからない者の呟きでした。

亜獣譚

亜獣譚という漫画が完結した。

この漫画の新刊が待ちきれないのでマンガワンをダウンロードした。

完結おめでとうございます!ってことで医局で読み返しながら感想をしたためました。

まず、第一話の掴みがよかったですよね。ね。私、1巻持ってないというクソ野郎なんですけど、主人公の所業が最悪すぎてビビりましたし、これからどんな絶望が来るのかと思いました。エッチだし。

初めアキミヤ・ツキヒコはソウを絶望させて不幸にしてその不幸で自分を幸せにしようとした。そしてあわよくばその不幸で自分を憎み殺してくれることを望んだ。完全に自分のことしか考えていない身勝手な自殺願望者である。他人の不幸は蜜の味。正直、自分は幸福な人生しか歩んだことがないので、他人の不幸は蜜の味、というのはあまり共感できない。綺麗事とかでなく。他人の幸福が妬ましい、ならわかる。不幸な人を見ても幸せな気持ちにはならない。気を遣うし、できれば自分の周りはそこそこ幸せであって欲しい。そのほうが自分も楽だからといったどこまでも自分本位な希望だ。しかし、+であれ -であれ、自分の行動や言動が他人の気分を変えるというのは、贅沢な体験であると思える。自分をゴミのように扱う人に囲まれて育つと、そう言ったものを求めてしまうのかもしれない。話せば耳を傾けてくれる人が居ないことが普通だった人は、話を聞いてもらえる喜びを知っている。ツキヒコは人を愛したことはあったが、幸せにしたことはないと思っていた。作中にも出てきたが、幼少期の傷は成長した後から薬を塗ることはできない。大人にとって狭い庭も子供にとっては広大なジャングルだったり、あっという間に終わってしまう夏休みは、子供には飽きるほど長い夢の時間である。大人は蚊に刺されたようなもので住む他者からの悪意は、子供には突然振り落とされた斧のように襲いかかるかもしれない。そしてそのケアは、その時にしなければ、決してなくならない。時間が何層にも澱となって見えにくくしてしまうかもしれないが、確かにそこにある。作中ではバームクーヘンでうまく表現されていた。

私が作中最も好きなシーンは、アキミヤがチルに「そいつと一緒にいる時に喰うメシは美味いか?」と聞く場面だ。飯がうまいのが、一番だ。精神的に参っている時は飯はうまくない。「そこでお前は幸せになれるのか?」そう言った曖昧な質問ではなく、歯を溶かすくらい嘔吐を繰り返す生活をしていたチルに、「メシはうまいか?」と聞くアキミヤは、本当にチルのことを思いやっている。それが感じられてよかった。ただただ、「ソウから頼まれたから」だけではない。

ハラセがチルに「どうしてお前に目をつけたか分かるか?」と尋ねる回想シーンがある。「顔がいいから?身体がいいから?去勢されてるから?俺が弱みを握ったから?」「俺がお前を見下してるからだ」「女だから男だから子供だから老人だから生徒だから教師だから景観だから政治家だから不細工だから貧乏だから・・・なにか「だから」狙うんじゃない。「簡単に壊せる」そう思われたやつから餌食になるんだ」ハラセ、意外と考えているんだなあと感心しました。基本的に強者はこういった力関係には鈍感だと思っていた。ハラセも害獣駆除という仕事をしているし、弱者の立場を知っているということかもしれない。強いものは害されない。そして強いものは痛みに鈍感であり、配慮がない。食物連鎖のように、自分を搾取する強者からのストレスを、自分より下であると判断した見下している相手に発散する。ピラミット最上位の本当の強者は害されないためにその構造に気がつかない。中間層は自覚した上で自分の精神衛生を保つためにそのピラミッドを維持する。改善を望むのは最下層のものくらいだろう。チルやユメカミはそこにいたのではないか。そして、アキミヤはそのピラミッドには属していなかった。誰も見下したりしなかった。おそらく自分以上に罪深い人間はいないと思っていたからかとは思うが、圧倒的強さを誇るアキミヤにユメカミが憧れこそすれ妬みはなかったのは、住む世界が違ったからだろう。あくまでユメカミは人間になりたくて、ピラミッドの上位に妬みを感じていた。人の道から逸れ、自分の復讐を邁進するアキミヤになりたかったわけではない。

アキミヤが「殺す 無実の人間を壊す者全て 殺したい」というシーン、とても力が入っていて好きです。こう言った怒りは最近よくわき起こる。なぜ、なぜ、罪のない人を傷つけるのかわからない。

そうしたアキミヤもどんどん人に近づいていきますね。初めから人間だったけど、自分を人間と認めていないところがあった。「殺したい」よりも「愛したい」に変わっていく。憎いおじさんを殺さないと言い、虫になったソウでも愛しますと言った頃からもうアキミヤは復讐から解放されていた。

「あなたがオレにかけてくれた言葉と体温が好きです」

人は言葉と体温に救われるのかもしれない。なんていいセリフなんだ。

最後に私が好きなシーンを貼らせていただく。アキミヤは「周りの人間全てから 愛されて褒められて撫でられてぬるま湯の中で 血も流さず 育ってきた」とソウを評していたが、そういうふうに暖かい日のあたる場所で育った人しか人を救えないのかもしれない。

 

いちらく

コロナ騒動間際に(セウトかもしれない)天童温泉温泉いちらくに泊まったのでその感想を。

ぶっちゃけ寝る場所がないからどこか市内から近い温泉で手頃なところを、と思い適当に予約した。が、とても良かった。何がいちばん良かったかってコスパですね。

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入口。入ってすぐになんかオブジェが並んでていい感じを醸している。芸術性については分からない。

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これはロビーで飲めるクラフトビールさくらんぼビールと蕎麦ビールの2種類があって、湯上りにさくらんぼビールを堪能した。苦味が少なくて日頃ビール飲まないわたしもグビグビ飲めました。しかし、ビールを飲んだことで今後辛くなることをこの時の私は知る由もない・・・。

お風呂もとっても良かったです。日が高いうちに入浴したことも関係してるかもしれないが、とても広々していて、清潔感があり、お湯の温度も熱すぎずぬるすぎず。浴槽が将棋の駒の形をしており流石天童と思った次第です。内風呂は本当に広い。露店もそこそこの広さで、桃の木が植わってるのかな?(自信なし)花が咲くと綺麗だろうなといった庭だった。日帰り入浴もやっているそうで、是非利用したい。

夕食について。f:id:azyarakoto:20200418213500j:image

量としては普通かな。ビール飲んでちょうど満腹になるくらい。同行人はビール2杯飲んだためにしゃぶしゃぶの山形牛が入らず私に寄越す羽目になった。f:id:azyarakoto:20200418213612j:image

いやぁこの肉が美味しいこと。しゃぶしゃぶはポン酢かゴマだれに付けて食べることができるんだが、肉そのものが美味しすぎて何もつけなくてもいいのではないかって思いながら、ポン酢愛好家はゴマだれを1度も使用しなかった。これだけでも十分すぎた。その他これより前に鯛の刺身やよく分からんけど美味いものが沢山出てきている。ご飯はテーブルで小さい釜で炊く、確かつや姫だったと思う。つや姫ってなんであんなに輝きを放っているの?宝石なの?おこげも美味しい。

さてさて、食事を終え、なにやら宿泊プランについていた貸切風呂一回無料を使って貸切風呂へ。f:id:azyarakoto:20200418214135j:image
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これが最高でしてね。ヒノキと陶器の浴槽が2つあります。永遠に浸かってられる〜。あ、お湯質についていってなかったけど、けっこうサラッとしたアルカリ泉です。もう最高〜。露天だから真冬だときついかもしれないけど、ここも洗い場が1つちゃんとしたのついてるから安心。んでんで脱衣場も最高なんだよ。全面鏡張りだったから写真撮ったけど私が写りこんでおり載せられませんでしたが、めっちゃオシャレ。和風オシャレ。そしてお冷置いてあるしアメニティ揃ってるし、マッサージチェアがあって時間が許す限り「あぁぁぁ〜」って解せる。貸切は1回45分でした。定価だと2000円とかだったかなぁ。ごめん忘れた。

んで最後はお部屋!多分1番スタンダードな和室を予約してたんだけど、空いてたってんでグレードアップしてくれたそうです。和室ベッド。可もなく不可もなく!元々ビジネスホテルだったのかな?ってかんじのユニットバスがついてて、トイレは結構古かったです。でもちゃんとお部屋とか洗面とかおしゃれにリフォームしてあって、昔から大事に営業してるんだなと感じるお部屋でした。

じゃらんから予約したんだけれども、じゃらんポイント使って1人5000円とかで宿泊させて貰いました。ポイント使わなくても1人1万くらいだったはず。コスパが良すぎる。ビール1杯しか飲まなくて誠に申し訳なかった。絶対にまた行く。

今年は天童の人間将棋はコロナで中止になってしまったけど、本当に美しく咲き誇る満開の桜が楽しめる時期に毎年開催されるので、是非未見の方は天童温泉に泊まって、お花見をして、将棋も楽しんで行って欲しい。

コロナウイルスが落ち着くまで数多くの素晴らしい旅館や飲食店が持ち堪えますように。

 

名月荘

上山温泉に宿泊した。大変素晴らしい宿だったので紹介したい。

上山温泉の名月荘と言う宿である。山形県上山市に訪問したことがある人ならわかると思うが、周囲に高い建物もなく夜空は綺麗に見えそうなロケーションである。生憎私が宿泊した日は曇天、小雨であったので月は楽しめなかった。
まず、到着したら宿の方が車まで傘をさして迎えに来てくれた。安い宿に泊まりなれている身としては慣れないことで少し緊張した。そのまま荷物を持って宿へ案内される。入り口を見た時は結構小さな建物じゃないか?と思ったが、実際に建物に入ってしまうと中庭があり、お部屋も広々としており驚いた。また、宿のなかに居るうちは外は全く見えず、中庭や手入れの行き届いた庭を楽しむことになり、現実を忘れることができる。
 
お部屋に入った際はあまりの広さに驚愕した。
まず、玄関からドアが3つ見え、右手にテーブルとソファ、簡易キッチン、中庭に出ることができるテラスがあるお部屋があった。

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正面はかわいいトイレ。左手には広い座敷に大きな炬燵が置いてある。中庭側には小さなテーブルと床暖房の不思議な掘り炬燵がある。

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また、奥にはベッドルームが設けられているのでご高齢の方でも安心だ。また、このベッドの寝心地がとても良い。そしてそして、トイレの左、座敷入ってすぐのところに部屋風呂が付いている。

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この温泉がまた最高だった。私は寒がりなので、脱衣所や洗い場が寒い風呂は苦手なのでが、この部屋風呂は洗い場が岩でできていて、とても暖かい。もう足の裏から幸せを感じることができる。温泉の力で床を洗い場から座敷奥の掘り炬燵まで温めているのだろう。天才と自然の恵みのコラボレーションやんけ。適当に予約しているのでこんなに良い部屋をとっていてびびったが、幸せだったのでよしとする。
 
お風呂の紹介をしたので、次に大浴場の紹介をする。皆さんの広い大浴場のイメージがどれくらいかわからないが、大浴場はあまり広くない。結構こじんまりとしている。だが、露天風呂もあり、露天風呂に面しているお庭も綺麗なので満足度は高い。お湯の温度もそれほど高くなかったと記憶している。次に貸切露天風呂についてだが、これは離れにあり、予約などなしに使うことができる。足腰が弱い方は石の階段がきついかもしれない。また、髪を洗ったりするのは露天なので結構気温によっては辛いと思う。私は浸かるだけで楽しんだ。景色はそれほどではないが、大きな石をくり抜いて作られた浴槽が立派だ。すぐ下を道路が走っているので、この露天風呂は少し現実を感じることができる。最後に、立ち湯という貸切風呂もあったが、おそらくこれは数年後にはもっといいものになってそうなので割愛。髪を洗ったり体を洗ったりするなら大浴場かお部屋のお風呂がおすすめ。朝、大浴場上がったところにある野菜ジュースは本当に美味しいのでぜひ。
 
書かねばならないことが多い。皆さん重視するであろうお食事についてだ。星5つで評価するなら星5つだ。うまい。多い。かわいい。美しい。完璧じゃんってことよ。器もかわいいんですよ。夕飯は県産コシヒカリでした。A5ランク山形牛もすごい、うまいに決まってんじゃんって見た目でうまいに決まってた。

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なんか最近胃もたれが凄くてちょっとキツかった。入りきれない米はおにぎりにしましょうか?って塩か梅か選ばせてくれて握ってくれた。対応が素晴らしすぎた。入らないよ〜って思ってたけど、寝る前に普通に食べることができた。胃袋の神秘。

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朝食は、可愛さがいっそうアップ。しかもお米がつや姫と雪若丸の食べ比べ。お米だけでもう楽しい美味しい大満足。お米大好きなので。もちろんその他のおかずも美味です。生卵とか納豆はないです。山菜が美味しい季節に行ってよかった〜。ウドとかうるいとかタラノメとか。

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帰る前にお土産物屋さんで物色して、かわいいお皿を買ってチェックアウト。お土産物屋さん、普通にかわいいものオンパレードで楽しいです。
あと、酒蔵もあり、自分で見て飲みたいお酒を注文できるので、お酒好きさんはいいのかも。お酒何が置いてあったのかはちょっとチェック不足でした。
これは毎回言ってることですが、良いお宿は早めにチェックインすべきですね。15時とか。今度はそれくらいに伺おうと思います。

2019年度を振り返って

さて、そろそろ今年度も終わりなので、好きな曲を聴きながら今年度を振り返り、反省し、来年度への抱負でも考えようかと思います。あまり年越しとか大事にしない人なんですが、区切りをしっかり意識して置くのは成長する面で大切ですね。

4月からは新天地での仕事だった。引越しをして、新たな家、新たな病院での仕事。まあ毎日が必死で、光陰矢の如しだ。日々わからないことだらけで、よくわからないままにやったことのないことを手探りでやる。上司はとても怖い。爆弾と働く。ゴールデンウィークもどこへも出かけず働く。不思議とあまり不満はなかった。新しい環境は昔の私を知らないひとが多くて、離婚して姓が変わったばかりの私にとって大変居心地が良いものであった。後悔はないといえ、そこを突かれるのは良い気分はしなかったから。言ってみれば自分の愚かさを掲げているようなものだったからだろう。4月も5月も短くて、6月も発表だったりなんたりあったりしてとても忙しかった。特に何かしたかと考えるが、働いていたことしか思い出せない。辛くなかったことの理由に、職場の同期がとても楽しい人たちだったことが挙げられるかと思う。6月にはみんなで泊まりでBBQをしたりなどした。とても田舎にある病院なのだが、周囲が自然に囲まれていて大変美しい。BBQをしたのも熊出没注意の山の中だが野鳥に荷物を荒らされたりなどして楽しかった。日々の出勤も、鷺の飛来する川を渡り田んぼの脇を抜けて、遠くにまだ残雪の残る山並みを眺めながら運転できるので、飽きることはなかった。私はあの土地をとても気に入っている。そうだ、私には好きなひとがいたのだが、6月に私は告白をした。予想はしていた(予想していたので「端的に返事をしろ」と告白後に付け加えている)が、はっきりとした返事をなかなか寄越さず、口先でゴニョゴニョ言っていた。まあそういった余計なことを考えすぎて身動き取れなくなるような愚かしいところも可愛いと思っていたので、仕方ないかと諦めていた。そんなこんなで私からの大きな好意でもって付き合うことにあったわけだ。7月に入ると診療科が変わり、鬼上司から解放されかっこいい上司にムフフしながら楽しく働くことができた。別のあらゆる人に電話しなければいけないと言うストレスは増えたものの、少なくとも口内炎はできずに過ごせた。医者として強くなれたかと言うと、そんなことはない気がする。現場での経験値は増えた。しかし、鬼上司は鬼なだけあって、しっかりとエビデンスに基づいた治療をしていたが、そうでない人も多く、結構曖昧なまま経験則で行われていることも多いのだなと思う数ヶ月であった。なぜ、この薬を入れるのか。その質問に明確に答えられない医師は理解しているとは言えない。まあ、救急の場は専門から外れていることを行うので仕方ないのかもしれない。今を凌ぐためのものだから、間違ってなければいいのだ。私はちゃんとエビデンスに基づいた診療をしようと思った。私はあの3ヶ月、経験から診療していた。3ヶ月目のある日、後輩に尋ねられたことに答えられなかった。それがテキトウ人間の私の現実だった。テキトウに適当っぽいことをやってたにすぎない。恥ずべきことだ。しかし、悔い改めるまでなくして、私はその病院での研修を終え、最後に夏休みをいただきニュージーランド旅行を楽しんだ。ニュージーランドは良い景色であった。こじんまりとした町とあとは広大な土地と羊。移動距離が大きい。ワイトモの洞窟は美しかったが、観光地感がめちゃくちゃ出ているので少し興醒めしてしまう部分もあった。ホビットの村は手入れが行き届いていて美しかった。ロードオブザリングのファンなら行くべきである。残念ながら私は未読、未鑑賞であったため単純に景観の美しさへの感動のみだ。本当に誰かが住んでいた遺跡とかの方がテンションが上がる。三内丸山遺跡も広大な感じが似てるが、あれは景観はよくないがテンション上がるし何回か行きたい。ホビットの村は一回行ったからもういいかな。まあ友人との旅行と言うことで単純に友人との時間として楽しい旅行であった。今度長期休暇が取れたらこの時諦めたアイスランドに行こうと思う。いや、マチュピチュも死ぬまでには行きたい。いつならいけるだろうか。さて、旅行から帰ってきて、新しい病院へ移った。付き合ってる人もいる病院で、単純にその点で私は楽しみにしていた。しかし、外来や当番など一人でやらされるようになり、毎日必死であった。なんだ、年がら年中必死だな。いつだってギリギリで必死。私は私のような医者には見てもらいたくないな。この思いを来年度はどうにかしたいものだ。なんだろう、この病院での3ヶ月は、特に大きなイベントもなく経過しましたね。私は人を殺す力を持っているんだと実感したし、あらゆることが怖くなったが、私は働くしかないので、働き続ける。落ち込んでいるときに飯行こうぜと言ってくれる同期はとてもありがたかった。思えば私は楽しみにしていた付き合っている人に救われたことはないが、休憩時間隣で雑談をしていた同期には何度も救われた。まあ会うのも週1とかだったので、遠くの親類より近くの他人と言った具合に、手が届く範囲の優しい人たちに私は救われていく。人は手に届く範囲しか幸せにできないのかもしれない。あの人は連絡がきたら幸せな気持ちになると言っていたが、私はちっとも幸せな気持ちにはならなかった。近くにいるのにと欲しがりすぎた結果かもしれないが、それを欲しがっちゃいけないなら、私は何もいらない。この期間に何度も別れようか悩んだ。何度も仕事が忙しくてごめんと謝られた。仕事が遅くてごめんと。そんなことを責めてるわけじゃないんだよと何度伝えたかしれない。言うたびに理解した体でわかったと言うが、同じことを繰り返す。理解すると都合の悪いことは理解できない仕様になっているから人間は強い。馬鹿になることがもっとも強くなる近道なのだ。彼の中では私が忙しい恋人にかまってもらえなくて耐えられなくなって別れたことになっているのかな。まあ大差ないけど、現実は愛されていないことに耐えられなくなって別れた、だ。よく、「離婚したのはどっちのせいなの?」って聞かれるが、そんなの別れを切り出した方のせいとしか言えない。別れたいと思ったせいでしかない。その「別れたい」の原因がなんであれ、そう思った人のせいであろう。まあ、なので、今回の別れは私のせいなのだが、できれば自分のせいとは思いたくなかったので振ってもらおうかとしばらく年明けも別れずいたのだが、振ってももらえないので自分で切り出した。付き合い出す時も私からだったので、まあ妥当と言えば妥当。面白くもない終着点であった。職場がまた2020年から変わり、離婚前と同じところになった。結構「あれ?結婚した?」って聞かれて気まずい感じなった。この頃には自分の中で過去の話として割り切れているのでなんともなかった。このタイムラグはありがたかった。ただ、勉強不足は日々感じていて必死に生きることになった。まあ仕事も私生活も年中必死であったな。特に付き合っている人に別れを切り出し、しっかり別れてからは、口腔粘膜が荒れに荒れ、化学療法の副作用で荒れている人はこれ以上に辛いのかと過去の私に診療姿勢を反省するに至った。チョコラBBはよく効く。ビタミン野菜も飲んだ。おしっこがとても黄色くなるので水溶性ビタミンを感じることができる。大量にビタミンを摂取したこともあってか、だいぶ改善を認めるので、この週末は温泉に泊まって美味しいものを食べてゆっくりしようと思う。

以上を踏まえて、2020年度の抱負は、エビデンスに基づいた診療をする。また、手に届く範囲の人たちを助ける。自分を大切にする。

私の感情は私だけのもの

最近、悲しくて、悲しくて、何も手に付かない。悲しみを紛らわそうとして、音楽を聞いたり漫画を読んだりしている。こんな不毛な時間を過ごしている場合ではない。せめてこの感情を綴っておかねば、このくだらない感傷はきっと忘却曲線に則って美しく消え失せてしまう。時間は偉大な傷薬だと、流石にこの歳になればわかっている。有無を言わせない恐ろしさもある。忘れたくなくても、忘れてしまう。幼い頃、とってもとっても嫌で悲しかった出来事を思い出して、それほどでもないなと感じる。でも、そんなの大したことないよ、って未来の自分に伝えられたら、とっても悲しいね。時間はそんな野暮なことさせない。

 

「私の感情は私だけのもの」

違国日記という私の大好きな漫画で何度も出てくる。私が日記をつけ始めたきっかけでもある。そんなの当たり前じゃないか、と思うかもしれないが、この当たり前なことをしっかりと理解している人は少ないように思う。共感は人付き合いを簡単にすると思うが、逆に共感し得ないものを排除してしまう恐れがある。「共感=理解」と直結させてしまうと、「共感できない=理解できない」に直結する。理解できないものは恐怖を感じてしまう。弱き者は恐怖に支配される。そして人間はすぐに弱る。いつでも強くあることは難しい。「共感=理解」なんて怠惰である。共感は楽だ。相手の魂が震えることで、自分の魂が同じ周波数で共鳴するだけだから。脳を介さなくてもできる。感情も扁桃体などの脳の活動だろうと言えばそうだが、せっっかくこんなに重くシワがたくさんある脳を持っているのだから、共鳴してるだけじゃなくて、相手が何Hzで怒っているのか、悲しんでいるのか、喜んでいるのか、考えてみてもいいのではないか。それが「理解」だろう。あなたと私は共鳴できないことは残念なことではない。「共感=理解」ではない。「理解=共感」でもない。「私の感情は私だけのもの」理解する必要も共感する必要もない。同時に、恐れる必要もないし、否定する必要もない。それはあなたのものではないのだから。

いつでも共鳴してくれる存在は、孤独を紛らわせてくれるかもしれない。そんな存在を失うのは悲しい。独りを実感する。嬉しくても、悲しくても、怒っても、泣いても、叫んでも、空気が震えるだけ。

理解なんてしてくれたことなかったけど、時々共感はしてくれた。単なる共感。脳を使わない共感。理解しようとなんてしてくれたことがなかった。興味が無いから、考えようともしない。共感だけでやっていけるのは、知人もしくは付き合いの浅い友人までだろう。理解しようという努力のない関係を、延々と続けていくのは苦しい。周波数が合ってる時期はいいけれど、僅かなズレで響かなくなった時、理解しようと努力しない人は、否定か無視といった態度をとることが多いように思う。否定は論外だが、無視もかなり堪えるものがある。1人ではなくても、孤独になる。

「私の感情は私だけのもの」

その前提で、共感などには頼らず、「分からない」を前提に、理解しようという努力をできる関係ではないと、完全に一致するわけが無い赤の他人と良好な関係を築いていくのは難しいのではないか。そして、理解できないものもあるだろうが、それは「理解できないもの」として、理解しないまま隣にいればいい。私たちは同じ感情を持ち得ることはないし、同じ経験を積むことはない。それでも、隣にいることはできる。違う周波数でしか奏でられない生活を、営むことができる。たまに共鳴もしたりして。

 

ちょっと周波数が合ってただけだったんだね。居心地がよかったね。頭使わないから糖も消費しないし燃費よかったね。

あなたの感情はあなたのものだから、私には何一つ分かりませんでした。理解しようと努力してみたんだけど、きっと理解されたくなかったのでしょうね。そこそこ容易に共感できるくらいには価値観が似ていたので、理解されたくないであろう感情も、勝手に推測してしまいました。全部推測でしかないけれど、それは推測であると同時に、わたしの実感なのだ。私は愛されてなどいなかった。理解しようと努力したら、実感してしまった。本当のあなたの感情は何一つわからないけれど、この実感だけはわたしのものだから、本物なのだ。切なくなるので言葉にしたくはなかったけれど、本当に私は忘却の面で優秀なので、忘れないようにここに記しておく。