屠所の羊

備忘録

ぼやき

むしゃくしゃしたので綴ります。

怒りの所在をはっきりすることは大人への第一歩だと私は思う。いや、大人というか、社会人として生きていく上で身につけるべきスキルだと思う。

なんだかむしゃくしゃして何かに怒っており、周りに当たり散らしている状況というのは赤ん坊と変わらない。

自分がなぜ気持ちよく無くなったのか、何にカチンときたのか、それを理解できない年齢ではないだろうと思う。

もっともらしいことを言って、そちらに論点をずらすのは皆よくやることだとは思う。ただ、そのもっともらしい論と、あなたの怒りとの関係性はどうなっているのでしょうか。そこに怒っているのでしょうか。中にはそのズレに気がついていない様に思える人もいて(私から見てズレているだけで、本当にズレているのかはわからない)、もっともらしい論を展開しながら別の点で怒っているからこれは手に負えない。キモチのモンダイガーはこういうタイプにも存在すると思う。

気持ちの問題、というのは確かに存在する。

言い方一つで受けての印象は変わるし、物事の順序を間違えただけで印象はグッと悪くなる。言いたいことは一緒だし、順序が違っても結果は同じなのに。

ただ、そう言った「印象操作」は人が生きていく上で自分の人生を生きやすくするための手段であり、それによって自分の感情を振り回されるなど愚の骨頂である。

ただ、まあ何に対した怒りなのかもわからずにでも、怒りを発散させることは己の精神環境に良いかとは思う。ただその怒りを発散することで、また、負の感情を抱く人はいるのである。その人が冷静に「これは自分への怒りではなく何かを発散しているだけだ」と受け流すか、自分への怒りと受け取り精神をすり減らすかは相手次第だが、怒りを発散させている時点でどちらになっても文句は言えない。「受け取り手の問題だ」というのは努力不足の伝達側の言い訳である。

そうやって自分が怒りの所在をはっきりさせることができないために、他者の精神環境を脅かすのは最低の行為である。

ただ、私が思うのは、怒りの所在というのは他者からは分かりようがないものであり、それを解することができるのは自分だけであるということだ。その日少しお腹が痛かったとか、付き合っている人とうまくいってないだとか、そう言った個人のコンディションで沸点は下がる。下がった沸点で爆発させた怒りは、冷静に考えると理解に苦しむものである。他者が理解することなど不可能なのだ。

だから、怒りをぶつけられた時に、まず、その怒りは私に向くべきものなのかを考える。違うなと思った場合は、そこで終了だ。なぜ怒っているのかの解明は不可能。さらっと忘れるのが一番。その怒りが私に向くべきものであっても、そんなに怒ることなのか考えてみて、おかしいなと思ったら、謙虚に怒られた事実のみを受け止めるべきである。ただ、「そんなに怒るほどのことじゃないじゃん」と言うのは、驕りである。あなたにとって怒るほどのことでなかっただけなので、他者の怒りの度合いを勝手に測るべきではない。と、私は思う。たとえその怒りの根底に別の問題があったとしても、それは本人以外知る由もないことである。

必要以上に重く受け止める必要もないし、相手の言葉を軽んずる必要もない。

私はそう思いました。

以上、なぜ怒りを向けられているかわからない者の呟きでした。