屠所の羊

備忘録

あまりに景色が良い

職場のわたしのデスクの隣には私の身長よりも高く広い窓があり、8階からの眺めを遮るような建物もなく、あまりに景色が良い。盆地なので遠くには山々が連ねておりこの季節はまだうっすらと雪化粧を残しつつ微笑んでいる。先日まで桜も満開だったが、気づいたら散ってしまっていた。人々が平日に働き土日で休暇を取るようになって、お花見も難易度が高くなったのではないかと思う。見ごろの週末なんてワンチャンスじゃないか。みんなそのチャンスを逃さまいと必死に名所へ出向かう。私のようなめんどくさがりは、混雑を避けたくてお花見に行く気が起きない。まあそもそも休みもないのでデスクの隣の素晴らしい窓から見える桜を楽しんだだけで今年の花見は終わってしまったが。

 幼いころ、桜の花の下にレジャーシートを敷いてお弁当やらを食べたり駆けまわったり毛虫をつついたりしたような、花を見ているのか怪しい「お花見」をする機会は、大人になってから失われてしまった。桜が好きかというとそうでもないし、むしろ花は嫌いな方なので、なぜ「お花見」したいかと考えてみると、やはり楽しいものという刷り込みによるのだと思う。幼少期に楽しいを刷り込んでおくのは、親の重大な役目なのかもしれない。「これは楽しいのか?」と考えなくて済む。空調の効いた部屋で遠目に美しい桜を見て気の置けない仲と酒を飲む、が冷静に考えて最高の花見だと思うのだが、いわゆる「お花見」をしたいと思ってしまうのは、やはり刷り込みであり、「お花見」と「楽しい」「美味しい」「幸せ」を関連付けているからだろう。無垢に何の疑問を抱かずに生きることができなくなってから、そういった「楽しい」「幸せ」の刷り込みの尊さに気が付いてしまった。「幸せになりたい」と思ったとき、私の中での「幸せ」のあり方が、幼少期の経験からしか形作れないと気づいてしまった。もしかしたら、あらゆるメディアから供給されるモデルケースとしての「幸せ」も多少は影響しているかもしれない。

 あらゆる「幸せ」の形を持っていたほうが生き易いし、「幸せ」を感じる閾値を下げていった方が生き易いと思った。

 同時に恐ろしくなった。私は子供を産み育てることもできる年齢になり、それなりの収入も得た。しかし、私が両親からしてもらったようにあらゆる「楽しい」「幸せ」を刷り込んでやることはできるだろうか。あのまっさらな赤ん坊が、まっさらである時期に。私は、恐ろしくなって逃げた。

 

 私の両親は素晴らしい人たちなので、たくさんの「たのしい」を刷り込んでくれた。私の父は自営業で結構休みも自由に取れていた。土日はいつも家にいたし、平日も17時過ぎには帰宅して一緒に食事をとれていた。今の自分の働き方を振りかえり、これでいいのかと自問する。休みが取れず花見にも行けない。窓からあまりにきれいな景色を眺めるだけ。お金があってもできないことの価値はどうやって共有すればいいのだろうか。他にやりたい仕事もないし、子供を育てる予定もないし、とりあえず共有する必要もないのだけれど。